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西國三十三札所巡禮系列,將重新整理上帖


請移駕至
觀音正寺,西國最艱難參拜的寺院
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2013/9/15
神出鬼沒的天竺高僧法道仙人

 

清水寺 縁起:
推古・聖武 両帝勅願所  本尊 大講堂(千手観音)・根本中堂(十一面観音) 奉安

和法華一乘寺一樣都是法道仙人開基的
法道仙人何許人也?



法道仙人和行基菩薩是同一時代的高僧
有關行基菩薩的事蹟以後會再詳述!


法道仙人は天竺(インド)で金剛摩尼の法を修行し、悟りを開いた仙人で、諸方を瞬時に移動し、不老不死の超人でありました。
 あるとき、紫雲に乗って百済より日本に飛来し、山の中に蓮の花を開いたように光る霊地を見つけ、印南郡法華山(今の古法華あたり)に降り立ったと言われています。

曾乘紫煙,經中國,百濟而達到日本,華山,總是生活於播磨國伊波依法治縣誦法華經,深度小寒,藏有千手銅像同情,佛舍利,寶缽等。 (十八,74覽圖板證書播磨三個圓形石材廠這片土地上的大祭司傳卷原徹釋書證書),p3417

請注意下面這句話:
 
聖徳太子は、622年に逝去されます。法道仙人が活躍された時代は645年乙巳の変(大化の改新)の前後に集中しているので、ちょうど聖徳太子と役行者が活躍された時代の間隙を埋めるようなタイミングで、主に、播磨から六甲山へかけて寺院を創建しているのです。
 



加古川流域にはたくさんの寺院がありますが、その多くが法道仙人の開基と伝えられています。

 法華山一条寺(加西市)をはじめ、清水寺(加東市)、伽耶院(三木市)、長光寺(加東市)など、播磨国を中心に120か所にも及ぶ寺院が法道仙人の開基と言われ、各寺院やその周辺で、たくさんの伝承を残していますが、西歴650年前後の短い期間に集中してたくさんの寺院が山間部に開基されており、また200年以上前後して開基されたと伝わる寺院や、離れた地域にも点在しています。いくら仙人と言えど、400年も生きていたとも思えませんし、これほど短期間に広範囲に寺院を作れたというのは、後々の人たちが、法道仙人を修行の指導者的な位置づけでとらえ、開基を伝承していったものではないかと思われます。ですから実在の人物であったかどうかは定かではありません。「上人」ではなく「仙人」と言われるのも特徴的ですね。
 不思議な術を使う超能力者法道仙人。法道仙人開基と伝わる寺院は比較的山の奥深い所が多いですから、山岳での修行僧の拠点となる寺院がこの時期にあちこちに開基されていったのでしょう。そしてそれらを、瞬間移動すらできる不老不死の超人、法道仙人が行ったとし、さまざまな伝承とともに伝えることで、布教活動を進めたのでしょうか。

 もちろん開基当時の建物が残っているのではありませんが、法道仙人作と伝わる仏像も各地にあり、他にも国宝級の建築や仏像があちこちに見られます。また、どの寺院も花や紅葉の名所で、自然が豊かなところにありますから、一見の価値あり!!
 静かに座して自然の声を聞き、1500年ばかり昔にタイムスリップすると、あなたも悟りが開けるかもしれませんね。

ちなみに数十年後、法道仙人はまた雲に乗ってインドへお帰りになったということです。


       御開山法道仙人は印度の僧で、今より1800年前、人皇十二代景行天皇が治められていた時に中国、朝鮮を経て御嶽山に住まわれ鎮護国家豊作を祈願されました。

請注意下面這句話:

  推古35年(627年)推古天皇勅願により、根本中堂が建立され、仙人一刀三礼の秘仏十一面観音、脇士毘沙門天王、吉祥天女の聖像が安置されました。もともとこの地は水に乏しく、仙人、水神に祈ったところ、霊泉が湧水し

その事に感謝して「清水寺(きよみずでら)」と名付けられました。

神亀2年(725年)聖武天皇は行基菩薩に勅願して大講堂を建立、永く経典の講義をする道場として、法灯を国中に輝かされました。花山法皇西国御巡拝の時、ここを訪ねられ御詠されて以来、西国二十五番の札堂と称するようになりました。















2013/9/13

去了奈良一趟,又忙於瑣事,致幾天未能更新,請大家見諒!

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2013/9/9
「空鉢仙人」的寺院




西国三十三観音二十六番札所の法華山一乗寺です。
奈良・平安時代に最も隆盛した寺で、法道仙人の創立と伝えられています。



650年、天竺の高僧法道仙人の開基

播磨国の法華山一乗寺(加西市)を中心として十一面観音信仰を伝えたという仙人。天竺の霊鷲山(りようじゆせん)の五百持明仙の一人で,孝徳天皇(在位645‐654)のころ日本に渡来したという伝説上の人物。

一乗寺の開基とされる法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である。『元亨釈書』等の記述によれば、法道はインドに住んでいたが、紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁をもつハスの花)の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという。法道は神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」と呼ばれていた。法道の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝である孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。

法道仙人開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しており、「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できない。一乗寺には7世紀~8世紀にさかのぼる金銅仏6躯が存在し(うち3躯は重要文化財)、付近には奈良時代にさかのぼる廃寺跡、石仏などが存在することからも、この地域一帯が早くから仏教文化の栄えた地であることは確かである。

 


法華山一乗寺の三重塔
国宝の三重塔は、承安4年に建てられた藤原様式の秀作。日本建築史上でも貴重なもので、簡素な中にも重厚な美しい塔です。


















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2013/9/6
氣派非凡的「勝運の寺」



「勝運の寺」
西国三十三箇所の第二十三番札所。箕面の山中にあります。

勝尾寺(かつおうじ)は、大阪府箕面市にある高野山真言宗の寺院。山号は応頂山。 西国三十三所の第二十三番札所。
本尊は十一面千手観世音菩薩で、勝負の勝ち運を授かることのできるお寺として有名です。


第六代座主の仰巡のころ、ときの清和天皇が病に倒れ、それを寺にいながら仰巡が祈祷により治癒したという。喜んだ清和天皇が王に勝った寺として「勝王寺」の寺号を送りました。しかし、寺は、王の字をはばかり「尾」の字に控え「勝尾寺」と称するようになりました。




観音菩薩と多宝塔。




 
〔所在地〕 (摂津國) 大阪府箕面市勝尾寺
〔宗派〕 真言宗高野山派
〔開基〕 開成皇子
〔創建〕 神亀4年 (727)
〔御本尊〕 十一面千手観世音菩薩
〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕  和銅元年(708)、摂津国司・藤原致房のもとに生まれた双子の善仲(ぜんちゅう)・善算(ぜんさん)は山林修行に憧れ、神亀4年(727)、この地に草庵を結んだ。 修行を積むこと37年後の天平神護元年(765)、光仁天皇の皇子・開成(かいじょう)(桓武天皇の異母兄)が平城京を逃れてやって来た。 開成は仙人のような善仲・善算に師事して出家。 善仲・善算が取り組んでいた『大般若経』600巻の書写を引き継ぎ、宝亀6年(775)に完成させた。 そして経巻を埋蔵し、御堂を建てて、『弥勒寺』と号した。 開成が入寂する前年の宝亀11年(780)、妙観と名のる仏師が18人の童子と共に現れ、白檀の木に8尺の十一面千手観音像を彫り上げ、忽然と姿を消した。 妙観は人びとから観音の化身と信じられている。
 寺名の由来は、六代座主の行巡上人が清和天皇の病気平癒を祈って効験があったことから、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」の寺号を賜るが、あまりにも畏れ多いと「王」を「尾」にひかえ、『勝尾寺』と改めたという。
 これにより、勝運の寺として、清和天皇の流れをくむ源頼朝や足利氏から寄進を受けて、中世には広大な寺領を有する大寺院に発展した。 勝運祈願は現在も続き、商売、試験、スポーツ等、勝運を願う参拝者が絶えず、境内には勝運成就した「勝ダルマ」が、所狭しと奉納されている。





 







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